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公開日時:2009年01月24日 02時15分
更新日時:2010年12月06日 02時12分

人類が自然との絆(きづな)を

ずたずたに切り裂いていることについて

──フリッツ・スプリングマイヤー



太田さん、今記事をさしあげます。《この文章、きれいな漢字と平仮名の直筆です。》


至る所に充ち拡がっているので、われわれが呼吸している空気みたいにその存在に気づかなくなっているものが一つあります。そして、無意識のうちに一時(いっとき)も休まずこれを呼吸している点においては、空気も同じとは言え、吸い込むエネルギーの量などとなると、空気などものの数ではなくなるのですが、このことが頭にある人はほとんど居ません。

それは、落ち葉の葉陰に生えている茸(きのこ)がそうであるように、また、われわれの自分自身の鼻がそうであるように、目で見ることはできないものです。これだけヒントを差し上げても、それが何であるかお判りにならないことでしょう。


それでは答えを申し上げましょう。

それは、自然がわれわれに教えてくれている、万物の《生成流転の》真相(宇宙の真理)です。

この真理を頭に入れて置かないと、人類は滅ぶことになるでしょうが、現在のところ人類はこの真理を忘れてしまいつつあります。


分かり切った事ながら、ほとんどの人々が頭に置いていないというこの宇宙の真相について述べてみたいと思います。


いま、大雑把に考えてみますと、人類の住み場所は、田舎と都会という、二つの世界に分けられると思います。


田舎は、自然と天意(神意)によって造られ、都会は、人間によって造られています。

人間が作り出す人工世界では、人間の想像力の及び限りどのようにでも作り上げることができますから、そこで出来上った世界は人間の想像力が物質化して出来た産物ということになります。したがって、この人工世界は天然世界(天工(てんこう)世界)との絆が断ち切られてしまっています。


これに対して、天然の世界、あるいは田舎世界は、天意(神意。造化(ぞうか)の神の御心(みこころ))がそのまま現実化(物質化)した世界であり、神のデザイン(御業(みわざ))そのままの世界ですから、本物の世界であり、人間の想像力(イマジネーション)が如きの前に膝まづくといったことはありません。

逆に、人間の想像力は、天意(神意)を前にしては遥かその足元にも及びません。

したがって、自然環境(天工世界)の中で生きてゆくためには、人間は天意(神意)の教える所を見極め、造化の妙理(宇宙の真理・法則)に従って生きて行かねばなりません。


自分たちだけに具合の良い世界を作ろうとする余り、人間は神意の具体化である《森羅万象の相互調和を目指す》天工世界ときっぱりと縁を切ってしまい、自分らのイメージでデザインした人工環境を作り出しているのです。

ここでは、人間が主人であり《自然は奴隷であり》、人間が神なのです。

しかしながら、もっと視野を広げて考えてみると、神だと言ってもそれは《人間だけがそう思い込んでいるだけで、人間以外からは例外もなく悪意と思われている》偽神(にせがみ)にすぎないものですから、人間が自然を征服するなど、いつが来ても出来るわけはありません。結局のところ、人間は、神意(天意)が具体化(物質化)してできた所産であるところの、天然、その天然そのままの自然である自然環境(天工環境)ないしは造化と融け合い、それと折れ合って行くことを学び取らなければなりません。


アメリカ、日本、ドイツなどの諸国で進んでいる都市化現象は、天与の造化(天然)からのとてつもない乖離(かいり)現象であります。


農民や漁師は、本当の意味での自然(天然。天工環境)の中で仕事をして生きて行かねばなりませんが、政府の役人などは、人間の想像力の範囲内でイメージして作られた『人工』環境の中で生活を立てているに過ぎません。


さてここで、美しさについて人はこれをどう把えているか《美学》、考えてみたいと思います。

自然は常に移り変ってはいますが、その変化は自然の法則に則って行われています。

未来永劫に不変というものは何一つとしてありはしません。しかしながら、農民は、昔ながらの伝統的な、神意(宇宙の真理)に添っている物事を重んじます。


ところがその一方で、《これまで述べてきましたように、都会人や政府の役人が自然を人工の環境に作り変えるときに、そのデザインの本となる》人間の想像力(イマジネーション)というものは、つねに眼(ま)新しいものを探し求めており、また、人間というものは、最新の発明にかかる品々を──それは、最近発表された創作文学であったり、最新ものの玩具(おもちゃ)だったりする──に心魅(ひ)かれるものです。

そして、こうした小説やおもちゃなどは、自然と調和した内容や形をしているという必然性などあらばこそ、どんなものであっても構わないわけです。

そういうわけで、都会の人間は、新しい物事を追い求めては、どんどんと生活のペースを速めて行くことになるのですが、ペースを速めるのに急な余り、その分、天然状態の自然(天工(てんこう)環境)から遠離(とおざか)って行くことになります。

早い話が、天然(自然)環境は動物園の檻(おり)の中に押し込まれてしまい、そこにしか自然など有りはしない、ということになっているのです。


どうすれば、都会の人たちが、自然(天然)と触れ合って暮していた昔の環境を取り戻し、そこから、自然に従い自然と歩調を合わせることを学ぶことができるのでしょうか。


ビデオゲームの《人工的な、虚像・仮想(バーチャル)にすぎない》映像の虜(とりこ)になっていた分際から抜け出して、一本の樹木の美しさを改めて見直せる日が来るのはいつのことでしょうか。


(了)


(訳・週刊日本新聞編集部)

 

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